(株)陽だまりハウスの歴史② ~お客様を大切に!~
こんにちは、(株)陽だまりハウス
三代目大工棟梁の小山です!
前回の歴史①では、
私の祖父が宮大工として創業をした歴史をお伝えしました。
今日は、(株)陽だまりハウスの歴史②
~お客様を大切に!~ をお伝えします。
弊社二代目代表は私の父です。
(↓↓↓ 父が30代の頃の写真です。昭和50年代)
9人兄弟の6番目、次男という立場でしたが、
父は大家族を支えるために
小学生の頃から農作業や建築現場の手伝いをしていました。
宮大工で厳格な祖父と、
お調子者で人から可愛がってもらえる父。
親子でありながら正反対の性格でした(笑)
父は15歳を超えた頃になると、
よく祖父と対立するようになっていきます。
職人気質の祖父は厳しく育てますが、
それに反抗する父。
親子戦争が勃発する日々。
そんなストレスを発散させるかのように、
バイクを乗り回していた時代があったようです。
当時はカミナリ族と言われ、
バリバリとバイクを走行をしていたようです。
(現在でいうところの暴走族ですね)(笑)。
バイクでヤンチャをしているかと思えば、
『時代劇の役者になりたい!』と言って
役者を目指して東京に行きます。
周りの人たちからは可愛がられたようですが、
刀で切られる役(切られ役)ばかりで出世する事はありませんでした(笑)
私が東映太秦映画村で毎年扮装しているのは
父の影響だと思われます。
(左:妻の志穂 ・ 右:三代目大工棟梁の小山)
夢を諦め京都に戻ってきた20歳の時に結婚。
(20歳の父と母 昭和40年)
4人の子どもに恵まれます。
男・男・女・男。私は4番目の三男です。
(長男と次男誕生 昭和42年)
(まだ私は生まれていません)
父は本格的に建築の修行をするために
建設会社で現場監督として働きます。
(昭和45年頃)
20代のサラリーマンで4人の子どもを育てるのは大変だったと思います。
よく会社の社長から
『子供たちに土産でも買ってやれ!』と金一封をもらったそうです。
仕事でも、分譲地の区画整理から、家の建築、アフターフォローまで
一貫してさまざまな経験を積ませてもらいました。
また、会社の宴会の席では幹事に指名され、
宴会部長としてみんなを楽しませていました。
♬おなじアホなら踊らにゃそん、そん~♪
こんな経験が独立後にとても役に立ったと言って、
社長をはじめ、皆さんに感謝していると良く聞かされました。
第一次・第二次オイルショックの影響もあって、
勤めていた会社が苦しくなると、
思い切って独立をして一匹狼で工務店業を始めます。
景気が悪い中に独立をして、4人の子どもを食わせるのは
かなりの苦労だったことでしょう。
自分でチラシを作って、親戚、友人、知人、PTAの仲間にも配って
どうにかこうにか仕事を受注していました。
この一番苦しかった時に仕事を依頼してくださったお客様や
助けてくれた人達のことは一生忘れません。
人の繋がり、『義理人情』は大切にしていこう!
『お客様を大切にして長いお付き合いをしよう!』
困難の中から人生の宝を見つけたのでした!
時代はバブル景気へ突入!
昭和60年頃から仕事も大忙しの日々!
さて、続きは明日のお楽しみ。
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