(株)陽だまりハウスの歴史⑥ ~阪神大震災から感じた大工の原点~
こんにちは、(株)陽だまりハウス
三代目大工棟梁の小山です!
阪神大震災から26年が経ちました。
1995年1月17日AM5:46分
ガタガタガタと突然激しい揺れが起りました。
トタン小屋の寮で眠っていた私ですが
『軽量のトタン小屋だから大丈夫だろう』
そんな安易な事を考えながら起きてみると
作業場の窓ガラスが割れていました。
少し驚きましたが、時間が経つにつれて
その被害の全貌がTVを通じてわかってきました。
街が燃えている…。
高速道路が倒れるなんて…。
木造住宅や鉄筋コンクリート造りのビルでさえ倒壊して、たくさんの被害が…。
戦後の焼け野原か?と思うような光景でした。
そして復興工事が始まり、我々も神戸の街へ向かいました。
通常であれば高速道路で約1時間で到着できるのですが、
当時は神戸まで約5時間の道のりでした。
実際に現地に到着して見た生々しい悲惨な光景は
今も私の目に焼き付いています。
この神戸の復興でたくさんの工事に携わりましたが
中でも一番印象深かったお話をします!
それは、私が初めて新築工事を任された現場です。
お施主様は見るからに関西のおばちゃんで
口は悪いけど優しく接してくれるおばちゃんでした(笑)
新築上棟をしたその日から現場に泊まり込んで
仕事をしていました。
親方、兄弟子、応援の職人さんと一緒です。
みんなの朝ごはんと洗濯が私の役割でした。
プライベートなんて全くありません。
毎日仕事をして、雑用をして、説教を聞いて寝る。
共同生活をしていると今まで以上に親方の指導が厳しく、
あまりの辛さに耐えかねて、初めて父に泣きごとの電話をしたことを覚えています。
泣きながら話す私に父は
『そうか、そうか』と優しく聞くだけでした。
建築業界を知り尽くしている父にとって
ごく当たり前のことで全く驚くこともありませんでした。
なんだか大きな愛情に包まれている感じがして
涙を流してスッキリしたのをよく覚えています。
施主のおばちゃんもよく話しかけてくれました。
私のことを『ボン』と呼びます。
『ボン、大丈夫か?元気出しや!』
『ボン、今日は美味しい豚汁作ってあげるわな!いっぱい食べや!』
『ボン、お土産買ってきたで!こっちおいで!』
毎日現場に来ては私に声を掛けてくれるおばちゃん。
目を細めて笑う笑顔を見るたびに
『ええ家を建ててあげるからな!』
『絶対におばちゃんに喜んでもらおう!』
その一心で仕事に打ち込んでいました。
そして完成して引き渡し間近のことです…
おばちゃんが突如倒れて救急車で運ばれたのです。
おばちゃんのために頑張って来たのになんで…
あと少しで引き渡しだったのになんで…
あんなに元気だったのになんで…。
一命は取り留めましたが、
今までとは全く違う様子のおばちゃんになってしまいました。
おばちゃんの喜ぶ笑顔を見る事は出来ませんでした。
そして気付きました…
私は、自分が辛い、辛いと自分の事ばかりを考えていましたが、
一番辛かったのは被災者のおばちゃんだったんだ。
震災で生き延びて、いつも笑顔だったけど、
本当はストレスや恐怖と戦っていて辛かったんだね…
と初めて気が付いたのです。
せっかく生き延びた命なのに、
震災の後で倒れるなんて…。
震災の時だけじゃない!その後も続いているんだ!
これが本当の震災の怖さなんだ!
『よし、大地震が来ても絶対にビクともしない頑丈な家を建てよう!』
腹の底から沸き起こるエネルギーを感じた瞬間でした!
これが大地震にも強い家づくりをする原点になったのでした。
(株)陽だまりハウスでは、
大地震にも、繰り返しの地震にも強い家づくりをしています!
災害が起こった時でも、
『我が家にいれば大丈夫!安心だ!』
”安心”と”安全”を提供できること!
それがおばちゃんから学んだ家づくりです。
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