亜晃豊建について

初代 戦前の時代

私の祖父である小山庄太郎が1928年(昭和3年)に小山工務店を創業しました。
祖父は幼少時代に実の親を亡くし、真っ暗に閉ざされた日々を育ての親が実の子どものように育ててくれました。
そんな親に“恩返しをしたい!”と心優しい人柄だった祖父は手に職をつけるために大工の弟子入りをして、厳しい修行を乗り越え念願の宮大工の職人として活躍することになりました。

その頃は田舎づくりの家を中心に 寺社仏閣の改修工事など手掛けていました。祇園の八坂神社や長岡京市の光明寺などの工事にも携わっておりました。決して商売上手ではなく、職人気質としての高い技術力と真っ直ぐで優しい人柄で、近所からの信頼もあつく、『庄ちゃん!』の愛称でまるで家族のように親しまれ、頼りにされたと聞いています。

先代 激動の昭和

私の父である小山安男は昭和19年に生まれ、その直後に祖父の庄太郎は戦争に出ました。
戦争が終わってもなかなか帰国することなく、家族も諦めかけた頃にようやく帰って来ました。
戦後復興の昭和30年代とはいえ、まだまだ貧しかった時代。幼くて遊びたい盛りの父も学校帰りに現場の手伝いをして仕事に対して人一倍厳格な庄太郎の指導を受けて育ちました。
そんな厳しい庄太郎と時折対立することもあり、その不満をカミナリ族(暴走族)として発散した時期もあったようです(笑)

そんなこんなで先代も結婚をして家庭を持ったのが昭和40年のことでした。家族を養うため、修行のために足立住宅に現場監督として就職をしました。
土地の区割りからアフターメンテナンスまで一通りを勉強させてもらい、時折足立社長から『子どもにうまいもんでも食わせてやれ!』とお小遣いをいただいたりして、本当にいい会社だったと今でもしきりに“感謝”をしています。

そして、2度のオイルショックを経験した後の昭和57年、独立して亜晃豊建(あこうほうけん)を立ち上げました。時代はバブルにむかい、日本中が好景気の波に乗り、建築業界も大忙しの日々でした。当時はナショナル設備の下請け工事が最盛期で、仕事は断るくらい数多くありました。多くの工務店は、条件の良い(儲かる)仕事を優先して請け負っていましたが、こんな時代でも先代は人が嫌がるような小さな仕事も“はい、喜んで~!”と堅実に取り組み、お客様にも元請け会社にも大変喜ばれたそうです。

人情深くて人気者だった先代は工事引き渡しが終わったお客様をとても大切にしていました。『この仕事は、工事が終わってからが本当の始まりなんだ!』
『困った時にはすぐに掛け付ける!』
『近くに寄ったら顔を出す!』
あたり前のことをしっかりやって永く家守りをすることが大切なんだ!いつも忙しそうに汗を流す親父を見て、“カッコいいなあ、俺も手伝いたいなあ“と感じたものです。

もう一人の親父

先代の友人である村崎慶吾は昭和19年に長崎県に生まれました。
しかし翌年長崎には原爆が…。父親を失い、父親の顔さえ覚えていない寂しさの中、戦後を生き抜いてきました。
そんな寂しさゆえに誰も手がつけられないほど荒れ狂った時期もありましたが、人と人とが助け合って生き抜いた時代だからこそ人の痛みがよくわかる。そんな男義があり、厳しくもあったか~い人。
それが私の大工の師匠です。

私が先代に向って『大工になりたい!』と伝えた時に、『親子で仕事をしたら甘えが出てしまうから駄目だ。よその釜の飯を食って修行してこい!』と言われ、この師匠の下10年間住み込みで修業をすることになったのです。現在は宇治田原で畑仕事などをしながらのんびりと暮らしています。“貧しい時代に育ったけど心は豊かだった”お孫さんと一緒に畑仕事をしながら、満面の笑みでそう答えてくれました。

3代目 棟梁 最近情報 なぜ新築?

3代目となる私、小山世次は、高校を卒業して前述の村崎慶吾に弟子入りをしました。
弟子の事を真剣に想うからこそ厳しい言葉もありました。その時には理解できない事も多かったですが、年々言葉の一つ一つが理解できるようになり、私の心に年輪として刻み込まれています。

師匠の所に住み込みで10年間お世話になりました。独立をして不動産会社の下請けをしながら、結婚を機に宇治の小倉に住み始めました。
今の幸せな自分があるのは育ててくれた両親や師匠のおかげだ。恩返しの気持ちも込めて、次は自分が弟子を育てよう!と決心をして2人の弟子を雇うことにしました。

“こいつらを絶対に一人前の職人に育てる”“幸せになって欲しい”と全てのパワーを仕事にぶつけました。

この2人がメキメキと力をつけていき、新たな弟子も1人2人と増えて下請けの職人も充実し、忙しい日々を送り始めました。

そんな時……先代が病気で倒れました。手術をしてなんとか退院できましたが、杖をつかないと歩けない姿になりました。自分の親はいつまでも元気だと思い込んでいたので、現実を受け入れるのに苦しみました。今まで仕事でバリアフリーの工事は数多くしてきましたが、まさか自分の親のために手摺りを取り付けるとは思いもしなかったのが正直な気持ちでした。

私が落ち込んだこの時期を支えてくれたのが弟子たちでした。言葉こそ多くはありませんでしたが、『大丈夫!俺たちが頑張るからな!』と今まで以上に仕事に励んでくれました。そんな黙々と仕事に取り組む彼らの姿に励まされ奮起することができたのです。涙が出るほど嬉しかったし、感謝の気持ちで一杯でした。

脱下請け仕事

一生懸命に頑張る職人たちに、もっと幸せになってもらいたいと願っていたのですが、不動産会社の下請けは、単価が下がり続け、工期は短縮され、現場も遠方ばかりで、毎日朝早くから夜遅くまで残業続きで、日曜日も仕事をしないと工期に間に合わない状況でした。職人たちは家族サービスさえできずに泥だらけになって身を粉にして働いていました。そして、下請け仕事は、お客様の顔がほとんど見えないので何ために働いているのか?わからなくなっていきました。

幸せになるために働いているはずなのに…これはおかしい…。

そう考えた時に、家族のように親しまれ頼りにされた宮大工だった祖父のことや、『工事が終わってからが本当の始まりなんだ!』という親父の言葉、豊かな心で大工として私を育ててくれた師匠の事を見つめ直して決断しました。

『元請けになって、お客様の喜ぶ顔を見よう!』と、大きく舵取りをすることになりました。

とはいえ、今まで下請け仕事ばかりだったため、技術はあるが営業が苦手。家の売り方が全くわからない。建てた家は山ほどあるのにもかかわらず、施工写真など、記録に残していなかったためホームページやチラシに掲載する写真が少ないなど、課題は山積でした。

そんな中、地元小倉地域に、“小倉大好き通信”という手書きの情報誌をポスティングすることから始めました。徐々にリフォーム工事を受注するようになり、元請けとして工事をさせて頂いたときに、お客様が目の前で喜んでいる顔を見れた時は胸にグッとくるものがありました。

お客様が笑顔でありがとうと言ってくださっている。職人さんも笑顔で喜んでいる。私は、そんな光景を見て感動と感謝の気持ちでいっぱいでした。

これだ!『お客様の幸せが、私たちの幸せなのだ!』

この気持ちを忘れずに、地域に根差して“あこうさん”と呼んでもらって、家族のように親しまれながら永いお付き合いができれば、皆がハッピーになれると確信しました。

そしてリフォーム工事が軌道に乗って来た頃に、新築工事の依頼が入ってきました。

お客様がハッピーになる家ってどんな家なのか?
それには4つの幸せが必要だと考えました。

妻がアレルギーで苦しむ姿をそばで見て来たからこそ
・『宇治の季節にあった、心地よく健康に暮らせる幸せ』

震災の現場を目の当たりにして、被災者の生の声を聴いたからこそ
・『家族を守る頑丈な家で暮らす幸せ』

今よりもっと、これからずっと幸せになるために…
・『賢く建てるお家が生む、豊かに暮らせる幸せ』

建ててからも安心!
・『家族的なお付き合いで、永く安心して暮らせる幸せ』

あこうほうけんは、創業100年を目指して益々地域の皆様のお役に立てるように挑戦していきます。